今度受ける、得度習礼(とくどしゅらい)に行くまでに暗記しないといけない文章が二つあります。
ひとつは、正信偈(しょうしんげ)という、浄土真宗で普段のお勤めに使われるお経。そしてもうひとつは領解文(りょうげもん)という真宗門徒としての、どうでしょう、ひとつの誓いみたいな文章です。
もろもろの雑行雑修自力のこころを、振り捨てて、
一心に阿弥陀如来、我らが今度の一大事の後生、
御助けそうらえと頼み申してそうろう。
頼む一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、
このうえの称名は、御恩報謝とぞんじよろこびもうしそうろう。
この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、
御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の
あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞうじそうろう。
このうえは、さだめおかせらるる御おきて、
一期をかぎありまもりもうすべくそうろう。
"天にまします…"みたいなもんですかね。
おおざっぱに意味を書くと、
自力の心を捨てて "阿弥陀様、死んだらお願いします"とおまかせしています。
お任せしたので、成仏間違いなしですから、そのあとの称名念仏はその恩に報いてお称えするものであります。
こんな仕組みをみつけられたのも、親鸞聖人のおかげだし、
この、教えをひきついできた方々に大変感謝しています。
自分も念仏するようになったからには、一生決まりを守っていく決心です。
こんなかんじでしょうか?(ラフすぎてすいません)
まず、根元に阿弥陀如来の能力の計り知れなさをおかないと、なんじゃそりゃ? という文章ですね(^^;
でも、今、自分なりに領解文を今風にしてみて思ったけど、信心正因・称名報恩(信心が正因であり称名は報恩である)ということだから、信心は何処からきたのかな?
この、スタートの部分の自他力の区別が難しい気がする。
いざ、御法話でこんな話になってきたら、阿弥陀様が信心するような計らいをされたのだよ、と言っちゃうでしょうけど(^^;
おっと、今はそんなことより(おいおい)、まずは覚えないと(^^;